#04|きょうだいは、同じ親から生まれた他人 家族じゃなければ優しくできた
幼稚園から高校まで、同じ学校の男の子がいたとする。
幼馴染といえなくもないが、その言葉に含まれるような信頼関係はない。
必要なことは話すが、特別仲がいいわけでもない。ご近所だから多少 家庭環境は知っているが、それだけ。
高校を卒業してからは、どこで何をしているのか、風の噂で聞く程度。積極的に知りたいと思ったこともない。
しかし、そのまま20年以上が過ぎたときに、不思議な役回りが巡ってきた。

年老いた両親が、「かつての『幼馴染といえなくもない男の子』の世話を頼みたい」と言うのだ。
「え、なんで?」
多くの人が、こう思うのではないだろうか。
学生時代に、たまたま似た環境にいただけ。それなのに、なぜ「大人」の男の面倒をみるのか。
私の兄に対する感覚は、これに近い。
幼馴染を家族という言葉に置き換える。それが私と兄の関係性だ。
ひきこもりの兄をもつ妹が書くエッセイです。50代の子どもを80代の親が支える「8050問題」の片隅に、家族の問題で人知れず悩むきょうだいがいます。
誰が兄の保護者に?
きょうだいは、同じ親から生まれただけの他人。
私は昔からこう思っている。
血はつながっていて、同じ屋根の下で育った。でも、それは私が選んだことじゃない。気づいたらそうなっていた。

ひきこもりの話は、親が生きているあいだは、親子の問題ー「8050問題」「7040問題」ーとして扱われる。
でも、親がいなくなったら?
誰が兄を養うんだろう?
誰が身の回りの世話をするのだろう?
誰が兄の「保護者」になるんだろう?
法的義務はなくても…
きょうだいに、養う法的な義務がないことは知っている。
仮に兄の生活が破綻しても、自分自身の生活を犠牲にしてまで背負う必要はないらしい。

ただ、法的な義務とは別の問題もある。
罪悪感だ。
「家族を見捨てた」と思われること。
「冷たい人間だ」と評価されること。
誰に?
誰に思われるのか?
誰に評価されるのか?
自分だ。
近所の人や、道ですれ違う人、深く関わらない人たちに、何を思われて、どう評価されてもかまわない。
四十数年生きてきて、それくらいの図太さは持ち合わせている。
でも、「私は家族を見捨てた冷たい人間なんだ」と自覚しながら、あるいは、「仕方なかったんだ」と自分に言い聞かせながら生きていく人生を想像すると、無性に悲しく、虚しくもなる。
兄を見捨てる私、という罪悪感

もっと、思い合える家族だったなら。
緊張や失望ではなく、安心感を覚える関係性だったなら。
なぜ、ほかの家族には帰れる居場所があって、うちにはなかったのか。
なぜ、なぜ、なぜ。
考えれば考えるほど、喉から手が出るほど欲しかった「家族」が与えられなかったことを思い出して、悔しさに苛まれる。
その家族像自体が、感動的なフィクションによって刷り込まれた「幻想」だと言い聞かせても。
そして気づく。
私は、自分の傷ばかり見ている。兄のことなんて、これっぽっちも考えていないのだ。
「兄を見捨てる罪悪感」ですら、自分を正当化するために使っている。
優しくなれない自分を少しでも慰めるために。
兄や家族のことではなく、自分のくやしさや虚しさに執着する身勝手さ。
その穴埋めに、「兄を見捨てる私」という罪悪感を利用する。
ずるい自分にもうんざりだ。
家族だから、優しくなれない
一方で、もし兄が他人だったなら、私はもっと優しくなれたと思う。
「無理しないでね」
「大変だったね」
と、言えたかもしれない。

街で年配の方に道を聞かれたら、丁寧に応えるように。
友達が悩んでいたら、話をじっくり聞いて寄り添うように。
でもそれは、「問題を何とかするのは本人だ」とわかっているからだ。
自分事じゃないから発揮できる優しさ、というものがある。
客席から舞台を見るのと、自分が舞台に立たされるのは、まったく別のことだ。
親なきあと、誰がきょうだいの「保護者」になるのか。
暮らしの面倒をみて、経済的にも援助し、精神面でもサポートするなんて、私には無理だ。
「そのとき」が来て逃げられなくなったら、私はどうするのか?
大学卒業後、一般企業に就職。約10年前、退職を機に実家に戻り、両親と同居。その後、ひきこもり状態に。極端な思想に傾倒しやすく、同調しない相手への攻撃性が高い。
※ 本記事は実際の体験をもとにしていますが、身元の特定を防ぐため、一部の情報を省略・変更しています
