#05|ひきこもった兄のことを、私は何も知らない きょうだいはカウンセラーじゃない
兄は頭のいい人だと思う。
学生時代の成績で比較するなら、月とスッポン。
名の知れた大学を出ている兄が月。パッとしない大学卒の私がスッポン。
努力してもそこそこの成績しかとれない私に比べ、兄は試験前に多少勉強すれば良い成績を出せていた印象だ。
そのせいか、私は学生時代からどこかシラけた気分で生きていた。
努力で埋まらない差もある。
そう悟ることで、自分を守っていたのかもしれない。成績でしか評価されない環境に憤りながらも、やがて気持ちに折り合いをつけることを学んだ。
今では、兄を見て両親がため息をつく。
なぜこうなってしまったのか、と。
ひきこもりの兄をもつ妹が書くエッセイです。50代の子どもを80代の親が支える「8050問題」の片隅に、家族の問題で人知れず悩むきょうだいがいます。
目の前にいる人は、誰?
兄がひきこもるようになった理由を、家族は誰も知らない。兄も話さない。
40歳手前で会社を辞め、突然実家に戻った兄。
戻った直後はアルバイトに行くなどして働いていたそうだが、すぐに辞めてしまい、以降は自室にこもるようになった。
少し休んだら、また働くだろう。
そう思っていた両親の予想は外れ、兄はネットから得た情報に魅了され、同じ思想を持つ人以外をバカだと切り捨てるようになった。
制度や社会や国について、いつも文句を言っている。
素人の私が見ても「おかしい」と感じるほど、目つきも鋭くなっていった。

話をしようと試みても、対話にはならない。
兄と違う考えをうっかり口走れば、その怒りの矛先は家族に向かう。
何時間でも同じ話を繰り返し、怒鳴り、刃向かえば、凄む。
記憶の中にいた物静かな兄は、いったいどこへ行ったのか。目の前にいる人は、誰なのか。
私は「兄」という人のことを、何も知らない。何も知らなかったのだ。
リビングで、兄と2人きり
あるとき、実家のリビングで兄と2人きりになることがあった。
いつもは母親が作ったご飯を冷蔵庫から取り出すと、リビングを通り抜けてすぐに自分の部屋に戻るのに、その日は私がいるのを見て、なぜかリビングにとどまった。
怖かった。
壁に囲まれた部屋の中に、兄と2人きり。いつ、怒りの矛先が自分に向くのかわからない。
逃げ出したかった。
が、逃げることで怒りが爆発するかもしれない。そう思うと、動けなかった。
その様子が、兄には拒絶ではなく受容と映ったのかもしれない。
兄がポツリ、ぽつりと話し始めた。

大学卒業後、どんな会社に勤めていたのか。
何の仕事をしていたのか。
会社を辞めたあと、実家に帰ってきたこと。
実家から通っていたアルバイト先のこと。
そのアルバイトを辞めたこと。
話している間、兄は一度も私を見なかった。
私も兄に視線は向けず、「あー」とか「ふーん」とか、意味を込めない相づちを返してやり過ごした。
感情を語らない兄
兄は私に、終始、淡々と、「事実」を語って聞かせた。
その話の中にあるはずの感情は、見えてこなかった。
もともと口数の多い人ではないから、仕方がないのかもしれない。
きっと、兄自身にも手に負えないのだろう。自分が感じていることも、それを言葉にすることも。
だから私は想像した。

馬車馬のように働いて、帰宅後は気絶するように眠る毎日。
上司や職場環境が合わなくても、転職を考える余裕もなく限界まで耐える。
休日は布団から出られず、気づけば夕方。
日が沈む様子をぼんやり眺めては、1日を無駄にしたことを悔やむ。
それが日常になり、そのうち悔やむ気持ちすら消えて、何のために働いているのかわからなくなる。
そして自分の感情も消えていく…。
恐怖と、同情と、怒りと
これは私自身の昔話を、勝手に兄に投影しただけの妄想だ。
でも、兄と私は同時代に生まれ、同じ社会の中で働いていた。
だから、兄が抱えてきたもの、あるいは捨ててきたものを、まったく想像できないわけではない。
すると兄への恐怖の中に、同情が混ざり込む。
けれど同時に、得体のしれない怒りも感じる。
つらかった過去があったとしても、家族をストレスのはけ口にするのは違うだろう。
自分の足で立つことを放棄して、一方的に寄りかかるのは違うだろう、と。
誰にとっても今が生きやすい世の中だとは思えないからこそ、「甘えるな」と言いたい気持ちが育っていく。
恐怖、同情、怒り。
兄への気持ちは、いろんな感情がごちゃ混ぜになる。
兄を知ろうとするべきか?

兄がポツリぽつりと話していたとき、私はただ聞いていただけだった。
「大変だったね」
そう言って兄のカウンセラーを引き受ければ、兄は救われたのかもしれない。
が、私はそれをしなかった。
怖いからだ。
兄の内面を知ることは、私自身を知ることだから。
きっと兄の奥には、私自身が触れたくない家族のことがある。
私自身が、働き続ける中で押し殺してきた気持ちがある。
それらを見ないまま、複雑な感情を抱えたまま、兄のケアをすることはできない。
私はカウンセラーじゃない。
ひきこもりになった兄のことを、私は何も知らない。けれど知ろうとすることは、勇気がいる。
知る怖さを、私は引き受けるべきなのだろうか?
大学卒業後、一般企業に就職。約10年前、退職を機に実家に戻り、両親と同居。その後、ひきこもり状態に。極端な思想に傾倒しやすく、同調しない相手への攻撃性が高い。
※ 本記事は実際の体験をもとにしていますが、身元の特定を防ぐため、一部の情報を省略・変更しています
